ワーキングマザーは夢をみる

働きたい、育てたい、すきなことをしつづけたい。

いつのまに、こんなに強く手を握ってくれるようになったんだろう

我が家は夫が不在の連休中日。

「娘と公園に行き、ベンチでおいしいパンを食べる」と決め、朝から午後のお昼寝前まで、のんびりお散歩を楽しんできました。


わたしは日頃、スケジュール的にもそうですが、精神的にも、なかなか娘とゆっくり過ごすことができません。
精神的にというのは、どうも、子供の遊びに長く付き合うのが苦手なんです。
楽しくないわけではないんですが、持続しないというか。ふだん一緒に遊べる時間がそもそもあまりないのでそれほど気になりませんが、せっかくの休日でも、1日中子供と遊ぶ!となると正直気が進みません。
短い時間ならまだしも、ある程度時間が経ってくると、積み残している仕事やこれから身に着けたいスキルのこと、読みたい本たち、ずいぶん長いこと離れてしまっている趣味…など、いろんなことが気になってきて、あれをやりたいのに、これをやりたいのに、と思ってしまうのです。

わたしより忙しくて、それでも仕事も育児もスキルアップも趣味もメリハリをつけてやっている人はたくさんいると思います。
どっちつかずにぐるぐる考えていても中途半端なだけだし、せっかく子供といる時間がもったいないし、子供にも申し訳ないと思います。でも今はまだ、そんな自分を変えられずにいます。

だから今日のように娘とまとまった時間を過ごしたいときは、ここから2時間は公園で過ごす!と、あらかじめ時間を意識することにしています。
そうすると、なんとなく公園に行って、なんとなく娘の遊びに付き合って…というときよりも、娘との時間に集中できるというか、満喫できます。

子供と暮らし始めて2年と1か月、まだまだ何かにつけて不器用ですが、それでもなんとなくわかってきた心がまえのひとつです。

 


ここのところあまり体調が優れなかったこともあり、娘と半日公園で過ごすなんていうのはひさしぶりでした。

大きな公園をぐるりと囲む散策路を、娘と手をつないで歩き、咲きかけの水仙やまだ頼りない飛び方のモンシロチョウを見つけるたびに手を離してしゃがみこみ、また手をつないで歩き…を繰り返すうち、うーん最近うすうすそんな気がしていたけれど、これはやっぱり、と気づいたことがありました。

娘と手をつなぐとき、それはつなぐというよりは、わたしが一方的に娘の手を握るだけだったはずなのに、いつのまにか、娘のほうからしっかりとわたしの手を握っている。
わたしが握る力を完全に抜いてしまっても、娘はしっかりと握り続けてくれる。

いつからこんな感じだったっけ?
先月は…思い出せない。先々月…お正月に帰省した時は、こんな感じじゃなかった気がする。いや、あれは雪道だったからだろうか。
思い出せません。

 

考えはどんどん飛躍して、もっとさかのぼると、2年1か月前、産まれたての娘は、わたしの人さし指をかすかな力で握るのが精いっぱいだったはずなのに、そこからいったい何がどうなっていつのまにこんなに力強く手を握ってくれるようになったんだろうと思うと、なんだか胸がいっぱいになってしまいました。

 

いったいいつのまに、こんなに強く手を握ってくれるようになったんだろう。

 

手なんて、毎日つないでいるのに。
いつ頃からこんなに力強くなったのか、思い出そうとしても、思い出せません。

だからといってわたしが娘を見ていないとか向き合っていないということではないけれど、娘の成長のすべてを見逃したくなくて、そのくせいつも娘と一緒だとできないことばかりが気になっていて、そんな綱渡りのようなバランスで保っている心が、強く、ゆすぶられるようでした。

子供はいつも、こんなふうに思わぬところでこちらの琴線をわっしとつかみにかかってきます。

 

こうして、どんどん娘は成長していくのでしょう。
わたしが、もうずいぶん前から、わたしの母の背たけを超え、体力も気力も上回っているように、そう遠くない未来に、娘はわたしよりたくましくなってくれるはずです。
わたしの母はもちろんわたしの成長を喜んでくれているけれど、今のわたしは、娘がそこまで成長することを想像すると、喜びよりもさみしさを感じてしまいます。


わたしの頭のなかはいろんなことでぐちゃぐちゃだけれど、しっかり娘を見つめていなければ、この手はあっという間に離れていってしまうんだなあと、もう何度も似たような思いに沈んだ気がすることを、まだ咲く気配のない桜の木の下で噛みしめました。

簡単には自分を変えられないけれど、目を離してしまって、見つめ直して、細かく細かく繰り返しながら進んでいくことしか、できそうにありません。


また、桜の咲くころに、娘とこの公園を訪れたいと思っています。