ワーキングマザーは夢をみる

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「きみは赤ちゃん」を読んで、忘れてしまった記憶にいつかまた出会う日を思う

川上未映子さんの「きみは赤ちゃん」を読みました。

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妊娠から出産、息子さんが1歳になるまでが丁寧にリアルに描かれています。
困ったこと、悩んだこと、疑問に感じること、納得できないこと、はずかしいこと、しあわせなこと、川上さんが出来事と自分の心とに徹底的に向き合い、言語化し、ひたむきに考えを深めてゆく様子に引き込まれます。

ここ数日、寝る前にちょこっとずつ読んでは、わたしの娘も「きみは赤ちゃん」であったころを思い出し、涙して、もぞもぞと布団に入り、先に寝ている娘の頬をなでる、の繰り返しでした。

 

涙が出る理由

なぜこんなに、読むエピソード読むエピソードで涙が出るのでしょうか。

たぶん、川上さんが体験した「試練」の多くはわたしも体験したことであり、そのつらかった記憶を思い出したから。「試練」に対する川上さんの立ち向かい方に共感し心を動かされたから。

でもそれ以上に、一番の理由は、わたしはこんなに覚えていないなぁ、と感じたからであるように思います。 

さすが作家の方の視点は鋭く深く、こんなによく見て覚えていてもらえて息子さんも嬉しいだろうなと思うことしきりです。
そこでわたしはどうだろうと考えると、まあ思い出せないこと。妊娠中、出産のとき、産まれてからいままで、思い出せないことがあまりに多すぎるような気がするのです。

たとえば、「グッバイおっぱい」という卒乳のエピソードでは、息子さんである「オニ」くん(おにぎりの「オニ」だそう)が卒乳したときのようす、そのときの川上さんの気持ち、などが細かく描かれています。
ええと、うちは断乳したときどうだったかな…と考えてみても、リビングのこのソファで最後の授乳をした、とは思い出せても、肝心の娘のようすなんかは覚えていない。どんな顔してたか思い出したいのに…。

オニくんが1歳の誕生日を迎えたときのお祝いのエピソードを読んで、娘(現在2歳2ヶ月)が1歳のときにどうやってお祝いしたっけ?と思い出そうとしても、よく思い出せない。
ようやくその日のようすが絵として頭に浮かんできても、それは肉眼でみた記憶ではなく、壁に貼ってある写真を頭のなかで再現した絵に過ぎなかったりする。

プロが時間をかけて書いた文章と、自分のいま引っ張り出そうとしたところの記憶とを比較してもしょうがないじゃないかと思うのですが、まあちょっと自分の体験と重ねて感傷的になってしまう本なもので、しかも夜中に読んでいるもので、ついこんなことを考えてしまうのでした。

 

なぜ忘れてしまうのか

娘のすべてを記憶しておくなんてどだい無理な話です。
そんなの当たり前なんだけど、妙に悲しくなってしまうのは、わたしがまだハタチそこそこだったころに師事していたアナウンスの先生(わたしは喋るのが仕事で、いまは主にナレーターをしています)に言われたことが関係していそうです。

たぶんフリートークの練習かなにかで、与えられたテーマに対して(おもしろい)エピソードを瞬時に話しだすことができなかったのだったわたしに、先生は「思い出せないのは、普段から大したことをしていないからだ」と指摘したのでした。
これは明らかに、日ごろから意識的にネタを集めておけとかそういう意味合いで言われたことで、娘の笑顔を思い出せないなんて話とはまったくぜんぜん関係ないのですけれど、喋る仕事でどうにかして身を立てようと必死だったハタチのわたしは「大したことをしていない」というのがとてもショックで、忘れられず、軽くトラウマなんですね。

このひと言があったから、いまだに「思い出せない」ことに対して考えすぎてしまうのだと思います。し、しばられてるなぁ…


とはいえ30代も半ばの今のわたしは、「思い出せないのは、大したことをしていないから」というのは(字面どおりの意味とするならば)、間違っていることを知っています。
そんなわけないんです。妊娠中、出産のとき、娘が産まれてからの1年、復職していま現在までの1年、どの期間も、どれだけの密度だったか。
あんまり思い出せないなぁと感じるけれど、大したことをしてなかったなんて絶対にありえない。大変だったし、必死だったし、たくさん考えたし、成長もしたと思うし、楽しかったし、こんなにおもしろい日々はありませんでした。

もともと先生の言葉はトークの技術を磨きなさいという意味であったでしょうから、それはありがたくこの先も肝に銘じることとして、やっぱり当たり前だけど忘れてしまったことを悔やんだり涙する必要なんてないのです。そりゃそうだ。忘れるのはしかたない。人間は忘れる生き物だっていうじゃないか。


でも、それでも、泣けちゃうんですよね…。
このへん、まったくかみ合わず整理がつかない。

 


忘れてしまうことの楽しみ

覚えてたいことだけいつまでも覚えていて、忘れたいことは忘れるなんて、そんな都合のいいことをできるはずもなく。
ならば、すべてを覚えておきたいと思うこと自体に価値があると考えるしかないのかもしれません。覚えておきたいと思えるような日々を過ごしてきたということなのだから、忘れちゃっても別にいいやと思うよりは、いいのかもしれません。

 ただ人間っておもしろいなあと思うのは、忘れていたはずの記憶が、あるとき何かのはずみで鮮烈によみがえる場合もあるってこと。

大体はなにかはっきりしたトリガーがあり、たとえば子供とままごとをしていたら、突然、自分が小さい頃にままごとをしていたときのワンシーンを思い出したってこと、ありませんか?童謡のCDを聞いていたら、この曲、自分も子供の時によく歌ってもらってた!って思い出したこと、ありませんか?

記憶って、忘れてしまったと思っても、完全に失われたとは限らないって、聞きますものね。ということは、これからの人生でも、そういうことがあるわけです。
たとえばいつか娘が子供を産んで、わたしに孫を抱かせてくれたとき、それがきっかけで、わたしが産まれたての娘を抱っこしたときの記憶がよみがえるかもしれません。
孫じゃなくても、何十年後かに、近所で赤ちゃんがよちよち歩くのを見かけたとき、娘が初めて歩いたときのことを思い出すかもしれません。

いつかそんなときがくるとしたら、わたしはいったい何をきっかけに何を思い出すのだろう。


1、2年前の思い出せない記憶を何十年後に託すなんて、ばかげているようだけれど、ちょっとおもしろくありませんか?

覚えていないってこともそんなに悪くないかもしれません。
まあ、思い出したそのときは、やっぱり泣いちゃうような気がしますが…。